
すでに卓上の電気スタンドがあるにはあるのだけど、作業机の手元にもうちょっと明るさが欲しいと思って、クリップライト的な簡易なものを探しに出かけてなぜかステンドグラス調の間接照明を買ってきた私。
いぶかしげなネルネル。
以前にも書いたことだけど、テレビ放送や通信物が現在は苦手なので、できるだけそのへんがなくてもいいような暮らしをしています。
ふと何かいやな記憶が出てきて、ぐあいが悪くなったり気持ちがにごったりするのはごめんなので。
あとは、自分のペースで暮らしたい、さすがに今は。ということでもあります。
子供の頃から好きな作家松谷みよ子さんの本で、児童書とは別に『小説・捨てていく話』という本があります。
昔自分たちがつくっていた劇団の終末をむかえて、それにまつわることをまとめるための文章をいくつか書かれているのですが、書いているうちに具合が悪くなって何度もソファに沈み込む描写を初めて読んだ時(それはまだ私が演劇の仕事をやめる数年前でしたが)私も同じくぐったりした気持ちになっていました。
松谷さんのご本は『ちいさいモモちゃん』からずーっと読んできて、でもその背後にはこういう景色があったかもしれなくて、私の形成にすっかりなじんだ松谷さんの文章がかたちをかえたここでもひとつひとつ、私の胸をうったり、釘をさしたりしてゆくのでした。
それは、自分の来し方を何か書き起こそうとすると、私にもやってきます。
演劇そのものを好きでずっと大切に思っていたピュアな気持ち。
劇団初期からなかば、当時の作品やその場をともにした人々への強い思い。
でも末期の劇団まわりではもう、みにくい出来事や人々がまっくろに渦巻いていたこと。
そのそれぞれがまったく違うベクトルで、私をひどく優しくも悲しくもさせ、そしていまだにつらく泣かせたりしてしまうことも多々あります。
おととしくらいに、子供の頃に読んだ本や童話の話をしていて『幸福の王子』の話が出た時、近くにいたかたが「オスカーワイルドだったらいくつかいい本があるから今度持って来ましょう」と言って、後日『獄中記』を持ってきてくださいました。
『書簡集』と一緒に編まれたものだったかな、かなり分厚くて、『ドリアン・グレイの肖像』すらちゃんと読んでいなかった私は「えーんごめんなさいー」とか思いながら、その分厚い本を、ちょっとずつひもといていました。
現実の事柄をあいまにさしはさみながらも書簡が中心だったので、だいぶひどいことをそれはまあ流麗に綴っているお手紙が続いて、それはそれで客観的に「…あんたらかなりやなやつだよね…」とも思ったり。
その本を貸してくれたかたが、ここは読むべき、というあたりにしおりひもがはさんであって、それはゆっくりと時間をかけて、私の胸にしみてゆきました。
後日、本をお返しする時に私は
「人をそしるような文章を書いてしまいそうになったら、この本を思い出すことにします。」と言ったように思います。
どんなに見た目を美し気に取り繕ってこういうことなんですと縷々と書き上げたところで、みにくいことばかり思ったり書いたりしたものは、なんだかしんどいものしか伝わらない。それが具体的にわかったから。
本来の感想とはちょっとはずれたところかもしれないけれど、私に吹く風は「それでいいんじゃない。まあでもきみはあんまり無理しすぎないことだね」と言っているように思っています。
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