誕生日の早朝4時に、「起きてくださあい」と、黒猫ネル(自称子猫)に起こされる。
水やごはんやおトイレなどひととおり入れ替えて、だっこしてごろごろして、もうひと眠りしたいなあなどと思っているところ。
無事にひとつ年をとって最初に聴いた曲は、山田さんのソロ作品『距離を越えてゆく言葉』。
初めてライブで聴いた時(13~14年前くらい…?)から、ずっと好きな歌。
おだやかな始まりかたと、そのメロディ、詩の世界が、何度でも胸に響く。
そう、「距離を越えてゆく言葉」。
それが私にもあったらいい、と当時から強く願っていたのかもしれなくて。
3月11日。
この日付に生まれたことを、12年前から、とても大切に考えている。
考え続けている。
つい今しがたも地震があって、一瞬ものすごくたくさんのことを想った。
この日付で思い出すことは、いくつもある。
あれは、23歳くらいの時だったと思う。
早稲田どらま館にて、第一回早稲田演劇フェスティバルというのをやることになって、6団体くらいの参加劇団から主宰や制作や担当者があつまって、実行委員会の顔合わせがあった。
それがたぶんこの日付だった気がする。
どうしてそんなこと覚えているかというと、その頃劇団や私事に少し行き詰っていた私は、
「あ、これ、楽しいことになるかも」
と、ふわーっと、その日けっこういい予感でいっぱいになったからだ。
実行委員会はいろんな劇団のいろんな人がいて実際楽しかったし、自分の携わっていた劇団にもこれは「幸先がいい」と、正直思っていた。
みんなそれぞれ、作業や稽古を抜けて会議に参加していたから、だいたいペンキがついていたり手ぬぐいを巻いていたりしながら、まるでものすごく難しい話題かのように演フェスチラシのデザインや折込の分担を話し合った。
どうやったら「ぴあ」に取材してもらえるのか。とかね。
今思うと、かわいらしくも真剣な議題ばかりで、思わずほほえんでしまう。
早稲田どらま館の2階で毎週のようにやっていたそんな実行委員会で、私と、他劇団から参加していた家人はちゃんと話すようになったわけだけど(それまでは稽古場で会えば軽く会釈する程度の顔見知りでしかなかった)そのへんから二人の記憶が重なっているのは、わりと楽しいことだなとこの年になって思う。
私はその大学の出身ではなくて、携わっていた劇団の母体がそこだったからたまたまそのへんによくいるようになっただけの人だから、ほかの人ほどその地に思い入れはなかったけど、きっと、たくさんの景色を覚えている。
早稲田どらま館から稽古場にしてた学生会館への帰り道に見上げる、毎年早く咲く南門の桜。その裏の作業場で次々と作られていく立て看板や舞台美術。
ちいさいころからずっと、覚えておく役まわりだったのかなと、思うことが時々、ある。
なにか誰かのことを、その日々のものごとや感情の気配を、もう今はなくなってしまった数々のことを、ひとつひとつ胸に留めて、なんらかのかたちに置き換えられるものはそういう置き方をして、自分に誰かに、いつかまた送り届ける係。
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