「さよならノート」
- naitou

- 20 時間前
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ごはんを食べた後、「ローマの松」のトランペットソロの音をとってみた。
大丈夫だったので少しほっとした。
この場合のだいじょうぶとは、もう普通の音階の名称でメロディをなぞれるということ。そしてどっちででも。
自分でやったソロではないから、耳の記憶の方が強かったね。
夕方、図書館に行ったのです。
書架の途中で懐かしいものも新しいものも取り混ぜて本の背表紙をながめていたら、ふとものすごくいろんなことがこわくなって涙が出てきました。
私の、もう思い出せない記憶ってなんだろう。
私には、はっきりしない数年間がある。その前後も含めて、朦朧としすぎている。
本の背表紙をながめて、少しなにかを思い出しかけたらきゅうに苦しくなって立ちつくしてしまったんでした。
とちゅうで吉本ばななさんの「アムリタ」を手に取ってみた時でした。
違う、私が今読みかえそうとしたその場面は「N・P」ではなかったか?と気づいたのです。
幽霊のように窓越しに外から見つめている父親。部屋で笑いさざめく姉弟はそれに気づかずにいる。その朧げで痛々しい夢のような表現。
ああそうか、私ずっと、こんなことばかりだったんだろうな。
自分のはっきりしない数年間は、資料をたどれば明確になることばかりなのかもしれない。
もちろん、そうしたほうがいいことが多いのもわかっている。
でも。
今日だって、そうだった。
思い出したくない直接のことがらだけでなく、それにまつわるいくつかのことごとも、たぶん私は記憶から遠ざけている。全体像ではわざと年を数えないし、うろ覚えのものはそのままにしている。
もう、泣きたくないからだ。
うっかり思い出したら、いつかどこかのポイントで泣く。泣いたら、苦しい。せっかく築いた日々のペースが崩れる。体調もわるくなる。泣いた自分にまたとらわれる。ひきずられる。
何年経ったから大丈夫、ってことではないんだ。ということを私はずっと誰にも言えなかった。
言ったら、苦しい。それを聞く人もたぶんつらい。
それだけ、言葉をなくした数年間、私は死んでいたんだと思う。
なおりたい、ってずっと思っていた。
それは、全部くっきり思い出せて別にって笑って元気よく毎日をすごす様式美への憧れだったのかもしれない。
今は少し違う。
私はたぶん、なおらないんだろうずっと。なにかがもとに戻ることなんてない。
それでいいんだとまっすぐに思っていたい。
なおらないものを胸に持ったままでいい。
そういう自分として、ただ生きていたい。
月を見上げながらななめに自転車を走らせて帰って来ました。
〈それでもやりたいんだろう?じゃ、やれよ。それでもやりたいってこと自分でちゃんとわかってたらいいよ。〉
心のどこかで「ドーム群ものがたり」の、かかしの声が私に届いた気がして、ちょっぴり笑いながら。
おやすみなさい。



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