「百の森、千の森」
- naitou

- 8月31日
- 読了時間: 4分

今日で終わりなんですね、夏休み。
明日から二学期なのね(関係ないけど)。ネルネルは窓辺から登校する小学生たちを眺めるのが大好きだから、よかったね。
私はと言えば、なんだか体中が痛くて宿題満載な週末です。えへ。
転校続きだった私にとって、
<子供の頃住んでいた町へ行く>というのはけっこうなイベントだったりしました。
そこまでの心の準備といい、なにもかもが。
大人になってからも何度か引っ越したけれど、学校も友達も年月もその土地ごと根こそぎ離別しなくてはならなかった子供の頃とは全然別の話だと思っています。
その中でも、鎌倉は観光地だし主に関東在住の私には少し足を延ばせば日帰りで行けるので、何度か赴きました。
ひとりでも、ひととでも。
鎌倉駅の江ノ電改札の前には昔は小さな映画館があってたぶん『風の谷のナウシカ』をそこで観た、
駅前に時計塔のある公園ができて植えられたクスノキの名前を小学校でみんなで考えた、
その少し先の図書館は児童書コーナーはそんなに広くないけどかなりの時間と気持ちをすごした場所、
一般書の棚にいると「きみ、そういうの読んでわかるの?」と声をかけてくる大人がおっくうだった、
毎朝早起きして八幡宮の鳩と鯉にえさをあげて散歩してた、
八幡宮の太鼓橋はその頃は一般に渡れて(今は禁止)滑るふりをしてよく遊んだ、
私が通う市立小学校に着くまでは国立大付属小学校と私大付属小学校をこえて徒歩30分もかかる、
頼朝の墓も荏柄天神も鎌倉宮も身近な遊び場で学校の行き帰りにちょっと分け入ればどこでもすぐお山に入れた、
私は学校帰りにひとりでよく宝戒寺の奥をさまよっていた、
学校の近くでなにかの映画のロケをずっと見ていたらキョンキョンがサインしてくれた、
クラスの子が「今日、頼朝?」「うん頼朝」などと日常的に征夷大将軍の名前を連呼するのでどれだけ身近なんだよと思ってたらバレー部の名称が「よりともバレー」だった、
駅前の書店の上の塾にみんな行ってた、
そこの書店ではマンガを立ち読みしてく子がぎっしり(本にビニールをかけていない時代)、
私立を受ける子がとても多くてびっくりした、
日々はすぎて八幡宮の池のほとりで子供の頃のそんなことごとをとりとめもなく思い出している30代の頃の私の影、
年々さらににぎわってゆく歩きにくい小町通…
鎌倉に転校してすぐの夏、夏休みの宿題で<緑と木を守ろう>的なポスターを絵画というよりデザインっぽく描いて提出したらクラスの男子に
「えー、転校生何描いてんのー?」とひどくからかわれて、けっこうショックだったように思う。
広島の小学校では自由に描くのがいちばんだったから。
「…ああ、こういうふうに言われちゃうんだ?」
そのへんの学校ルールめんどくさいなー、と思って私はくちをきかなかった。
でも、絵を描かなくなったのはたぶんその頃からだったと思う。
休み時間にノートに絵を描いていると、寄ってきた女子に「こういうの描いて」「王女さまがいいな」など何度か言われたけど、当時から自分なりの動物のキャラクター的なものばかり描いていたので
「ごめん…おひめさまとか描くの…むり」
そう断るのもだんだん難しくなってきて、
転校生に気を使ってみんな話しかけてくれたのに、すべて断るのも悪いななどとも思ってきて。
以降、絵はひとりでいる時に描けばいい。ということにして、
その小学校で参加した管楽器バンドにみるみる夢中になってゆく私。
それは本当に大切なきっかけだったのでした。
あまりその小学校のことやクラスの人のことは今は覚えていないんだけど、土地の記憶や音の記憶は今でもはっきりとしています。
子供の頃好きだった児童書の中で、
その森を通り過ぎるだけの旅人にはわからないけど、ちょっとでも足を止めてここは自分の森だという心持ちで見渡したりすごしたりすると見えてくるものが確かにある
というようなことを旅の物語にからめて書いたものがあって、それは読んだ時もその先も旅人みたいな気持ちの暮らしが続くであろう私の胸に「ことん」と響いたのでした。
そんな旅人気分は、6年生になって利根町に戻っていったんは落ち着いたものの、中学3年で柏市に転校して以降は常に全開。
今も。
…今も?
いい年してね。わかりませんけど。
そんなに遠くはないはずの鎌倉。
またいつの日かゆっくり行けたらと思っています。
萩の花には間に合わなくても、ちゃんとまた、いつかの季節に今の私で。



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