「祈りの日」
- naitou

- 8月6日
- 読了時間: 2分

暑い日が続きます。
今日の広島は暑いことでしょう。
この時間、平和記念公園での式典にいるかたがたの祈りを、今の私なりに受け取って考えていようと思っています。
私が小学生の頃の話です。
家から小学校までは、ほんの数分。
その中間くらいに、カトリック幟町教会・世界平和記念聖堂がありました。
いつも、その通りのマンションに住む仲良しの子を自宅まで迎えに立ち寄って、あとの短い距離をおしゃべりしながら学校へと向かいました。
教会は息をのむほど厳かで美しくて、でもその地で育った子たちはみな「ここの幼稚園だったけん」と親しみをこめて挨拶もお祈りもあたりまえのようにしていました。
そのちょっと先にある幟町小学校では、平和公園の<原爆の子の像>のモデルとなった少女が昔通っていたということもあって、折り鶴はとても身近なものでした。
今でも思います。
田舎から引っ越してきた子供の私には、この地がかつて焼野原だったことが最初まったく信じられなくて、こんな大都会で、建物も景色もきれいで、そんな、そんな。と思っていました。
でも、暮らしているうちに、少しずつ身にしみてわかってゆくのです。
多くは書きませんが、この地のかなしみ、怒り、苦しみ、そして祈り。
それは7歳くらいの私に、時間をかけて刻まれてゆく土地の記憶であり、今なお生き続けている<現在>でもありました。
本を読むこと、絵を描くこと、音楽に親しむこと。
文化施設や教育が充実していたその地で、子供の私はたくさんのものを学びました。
考えても考えてもやまないものがたくさんある今の私は、
それでも考え続けてゆこうと思っています。
祈ることをも。



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